My Life僕の履歴書

みなさん初めまして。

僕の名前は「神 将生」(じん まさき)と申します。

男三兄弟の次男坊で、A型のさそり座。そして動物占いは「波乱に満ちたペガサス」というなんだかヤバそうなやつです。

ちなみに3回ほど苗字が変わっているのでこの苗字は2番目の父親の苗字になるので、残念ながら神の血統ではありません(笑)

「清野」「神」「三輪」という苗字を経て、最終的に「はーい、じゃあみんな、どの苗字にする?」という母親の軽い召集で苗字が決定しました。

今ではとても気に入ってます。

出身は北海道岩見沢市という札幌から車で4、50分のところにある豪雪地帯で、北海道で言う程よい田舎という感じに近いかもしれません。昔は炭鉱が盛んな所だったらしいです。

岩見沢とは…

開拓者が休泊所で浴(ゆあみ)をして疲れを癒した事にちなみ、付近が「浴澤」(ゆあみさわ)と称されるようになる。これが転訛し「岩見澤」(いわみざわ)になったとされる。北海道の市町村としては珍しい和名由来の自治体名である。

引用元 Wikipedia

保育園時代

なんとなく覚えているのは、自分より年上のお兄さんたちが怖かったからか、初めて会ってから数日間は人見知りなのか何なのか園内にあるベンチの下に一日中隠れていました。

今でもプライベートで人見知りを発揮するのはこの時の名残なのかもしれませんね。

そんなにおとなしい方ではなかったみたいですが、一人で何千ピースもあるジグソーパズルをこつこつ完成させる子供でしたね。

兄弟で活発に遊ぶことが多かったせいか、この時から運動神経は割と悪くない方だったみたいです。

小学生時代

体操選手の森末慎二、ケンシロウ、ジャッキー・チェンに憧れてた少年時代。

転勤族だったので何度も転校していましたが、最終的には地元の「北真小学校」という所で卒業しました。

運動は好きだったので、少ない人数の学校の中では割と足が速かったりマット運動が出来たりと、先生に手招きされお手本にしてくれることが多かったと思います。

校内のマラソン大会では1位になった事もあります。

当時、地元のサッカーチームにも入っていたのでそのせいもあって動ける小学生だったのかもしれませんね。

サッカーではフォワードやミッドフィルダーで、基本的に攻めるスタイルに向いていたようです。

当時は知らなかったんですが、兄が持っていた本が、昔活躍したサッカー選手の釜本さんの本だったみたいで僕はその本を毎日見てそれに書いてあることをコツコツ練習していました。

たしか、お風呂の湯船で足を思いっきり振ってシュート力を上げるなんてものもありましたね(笑)

なんの疑問も抱かずに練習したせいか、シュート力はチームで一番強く、シュート練習では大魔王とか言われていました(笑)

勉強の方は……そんな出来る方でもなかったですね(笑)

中学生時代

この頃はなぜかヤンキーやら暴走族やらと、なんだかアウトローなものに憧れた時期でした。

喧嘩が強いとかそんなんでは全くなくて、とにかくあの格好に憧れたのかもしれませんね。

学校も「緑中学校」という、当時の地元では、いわゆる不良が多い学校という所だったので、その影響もあったのでしょう。そんな中学生時代はこんな感じでした。(一番右の人ね……)

今の自分からは想像できない方も多いみたいで、顧客の方も全く知らない事実なのでどうか内密に……(笑)

こんな見た目ですから、授業などは受ける事も少なかったと思います。何が嫌という事もなく思い付きで友達と家出をして数か月家に帰らなかった事もありました。

ただ、家が母子家庭という事もあり、朝と夕方の新聞配達は休まず行き、家にしっかりとお金を入れていた事だけは中学生時代に自慢できることの一つだったと自負しています。

猛吹雪と雨風の強い日はマジできついんですよね。新聞ってどんな時でも必ず届けるんです。

なので、今でも新聞配達員さんは尊敬しています。

そんな中学生時代でしたが、親や兄弟、家計を支えたいという想いから、高校へ行くことは全く考えず、働く事を決心しました。

母に「高校行かないで何がしたいの?」と問われ、ただ闇雲に働いて稼ぐとだけ考えてた僕は困りました。そこで考えたのです。

(たしか友達が美容師になるって言ってたなぁ……床屋さんみたいなことだよな?まぁとりあえず真似してみっか)

「俺、美容師になりたい。」

そんな軽い気持ちで母親に言ってみた事。
それが僕の美容師人生の始まりだったのです。

はじめての社会人

僕のいきなりの返答に全く予想してなかった母。

そりゃそうです。僕もいきなり思い付きで言いましたから(笑)

今思えば、僕の母は行動力がハンパないという事を実感しています。その当時に美容師の知り合いなどはいなかったと思うのですが、「○○美容室っていう所で雇ってくれるみたいだから行きなさい」と、就職先が速攻で見つかります。

そして15歳で美容師見習いデビュー。お給料は7万円。同時に美容専門学校通信科に入学。

何もかも初めてだったので、とても大変でした。

何が大変だったかというと、とにかくお客様のほとんどが全員大人ですから、人の髪の毛に触れるのも、話すのも、ただただ怖かったのを覚えています。

逆に、そんな若造を雇ってくれた当時のオーナーに感謝しています。

札幌に行く

1年ほど勤めた後、なぜか分からないですが、僕は札幌で働きたいと言い始めます。

自分でアルバイト情報誌を見て、札幌で美容師見習いを募集している美容室を探し、履歴書の書き方を母に教わりながら書き、無事に札幌での一人暮らし、そして美容師生活が始まりました。

それが16歳の時でした。

なんだかんだで2年ほど勤めましたが、ここで1つ目の転機が訪れます。

というのも、元々憧れて始めた美容師ではなかったので毎日が全然楽しくなく、毎日叱られてばかり。今日も行きたくないなぁと思う日々。地元の友達は学校やら遊びやらで羨ましく思ったのを覚えています。

そこで思いました。色々な仕事もやってみたい。

そして美容師はもうやらない。と……

調理師に興味を持つ

18歳で美容師を辞めた僕は、またありとあらゆるアルバイト情報誌を見てお仕事を探し始めます。

当時の趣味はきっと、趣味→読書→アルバイト情報誌を読むこと

だったと思います。

土木、ラーメン屋、中華料理屋、メンズパブ、居酒屋……etc.

色々やりましたが、結局行きついたのは居酒屋の調理師でした。

これがまた、出来る事がどんどん増えてとても楽しかったんですよね。

現在は、切る、炒める、焼く、揚げる、煮るなどが出来ますが、その時に培ったものが生きているといったところでしょう。得意料理は、血管が切れそうなくらい味の濃い肉じゃがです……。

しかしそんな楽しい日々にも終わりが来たのです。

美容師として腹をくくる

ある時、ふとテレビから流れてきた曲に耳を傾けました。

桑田佳祐さんが歌う、美輪明宏さんの名曲「ヨイトマケの唄」

姉さんかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き
天にむかって 声をあげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

これは一部ですが、この名曲は女手ひとつで日雇いの肉体労働をしながら育ててくれた母への感謝の気持ちを歌った曲なのですが、これと同じではないですが、似たようなところがあって、僕の母は女手ひとつで土木の仕事をして兄弟三人を育ててくれてたんです。

美容師を辞めてから、数日間だけ体験として母が仕事場に連れて行ってくれて一緒に働かせてくれたんですが、母が小さい身体で周りの男の人に負けないくらいの重いものをもって、泥だらけで働いていたのを見て自分も頑張らないとなって思ったんです。

そんな母親がずっと僕に言ってたことがあります。

「美容師に戻らないの?あなたは向いてると思うんだけどなぁ…」と事あるごとに言ってました。

ヨイトマケの唄を聴いた時になぜかそう言っていた母が思い浮かんだんですよね。

そこで僕は腹をくくりました。

調理師をやめて、まずは美容師で一人前になって活躍するまでは、もう辞めない!と。

美容師カムバック

そうして19歳も終わりに近づいた頃、腹をくくって勤めた美容院では10年ほど勤め、美容師として様々な経験をしました。

初めてスタイリストになった時の嬉しかった記憶は今でも鮮明に覚えています。

母の髪の毛をミスったのと、弟の耳を切ったのと、兄の眉毛を無くした事も鮮明に覚えています……。

年齢も30歳に近づくころ、誰しも訪れるであろう人生のターニングポイントが僕にも訪れます。

その頃、自分の技術って全然だな、もっと上手くなりたい!と思っていた頃で、その場合どうしたらいいのだろう?最先端を学ぶなら東京だよな、よし!東京へ行こう!

という事で、僕は東京へ修行しに行くことになったのです。

おら東京さ来ただ

え?本州の魚や野菜の味が北海道とはなんか違う!と衝撃を受けつつ、土地やお店が変わればお客様の層も変わる。東京のサロンではそれを思い知った感じがあります。

大きく違うかどうかと言われるとそうでもないのですが、何かちょっと求められるものは違った気がしますね。それこそ学んで努力しないと通用しないだろうなと。僕が東京で勤めた所にはアカデミーなどがあったので週に一度休みを使って学びに行くのですが、自分より経験の浅い若い人達がとても技術が上手で、やっぱり自分はまだまだだったんだなと実感しました。

そうして色々学んでる頃、名古屋にヘルプに行く機会がありました。そこで都合の良いスタッフが僕だったので、数か月名古屋に助っ人として行く事になったのです。

そして名古屋になじんだ僕はひょんな事から、助っ人→正規のスタッフとなり、現在いる名古屋に住むことになりました。

名古屋にて

名古屋に来てから今日に至るまで、とても学ぶ事が多かったように思います。大きく変わったことといえば、物事に対する考え方がガラッと変わった様な気がします。

本当に大切にするのはどんな事か?どういう人か?何のためにやるのか?誰のためにやるのか?そういった物事の本質を見る様になり、美容師という仕事の取り組み方も変わりました。

当時はマーケティングに関する塾や、自己啓発、人の心を動かす様なノンフィクションの書籍、そういった事を積極的に学んだからかもしれません。

もちろん、技術の勉強もたくさんしました。東海地区のヘアカットの大会に出場して勝ち上がってファイナリストとして全国大会に出場したり

日本でヘアカットを極めるならここ!という東京にあるダダ・デザインアカデミー(通称 DDA)に通算2年ほどかけて学びに行ったりと、学びには時間を惜しみませんでした。

そうした最中、人間的にも技術的にも学べば学ぶほど勤めてた美容院との想いのギャップが大きく出てくる様になったのです。

どちらのやり方が正しいとか正しくないとかそういう事じゃなく、自分のやりたい事、なりたい自分、在りたい自分というものがハッキリしてきたのだろうと思います。

正直、一生そのお店で勤めてたいという想いではあったのですが、人の想いは良くも悪くも変わるものなんですね。そして、そこで初めて自分のお店を持とうと思ったのです。

coupe(クープ)が出来るまで

勤めてた美容院に1年後に辞めさせてもらうように伝えた後、右も左も分からない状態からのお店探しから始まりました。

どんなお店を作りたいのか?どんな方に来ていただきたいか?自分はどんな店で働きたいのか?とても悩みました。ただ、大まかには自分の想いがありました。

  • 普段から来てくださってる方が喜んでくれるサロンにしたい
  • 最初から最後まで1人で責任をもってお客様を担当したい
  • 誰の目も気にならない、お客様も自分もゆったりのんびりした空間にしたい
  • 路面店ではなく2階以上の隠れ家的なプライベートサロンにしたい
  • お客様が楽しみに会いに来てくださるサロンにしたい
  • お客様が笑顔で帰って下さるサロンにしたい

そういう想いを元に、物件探し、内装その他いろいろを決めていきました。みなさんきっと当店にいらっしゃった時には、1人でやるには大きすぎるお店の広さにびっくりしたでしょうね(笑)

そうしてどんどんお店が出来上がってきました。

そうして出来上がったお店を見て、感動するかな?とか思ったものの、目まぐるしい日々だったので意外と感慨にふけることも無く、それよりも当店にお客様は来てくださるだろうか?そして来てくださったお客様は喜んでくれるだろうか?という想いの方が強かったように思います。

お店をオープンして幾年か経ちますが、思う事があります。

以前勤めていた美容院で、辞める事をお伝え出来なかったお客様がわざわざインターネットなどで検索して探して来て下さったり、前もってお伝えしていた方々もお花やお祝いを持ってきてくださったり、そしてほぼ全員、不安な気持ちのままオープンした僕に、前向きなお祝いのお言葉を下さった事を僕は一生忘れないでしょう。本当にどれだけ勇気づけられた事か。

自分がお店を出せた事も、一流の技術を学びに行けたのも、勉強が出来るのもほぼ全て、皆さんがお店に来て下さって支えてくれたおかげです。そしてお客様から頂いたお金をそういった学びや、より良い世の中を作ろうとしている人たちを応援する事に使い、もっとたくさんの方々に喜んでいただけるように、そしてなにより、お客様とお客様の身近な方々が良い日々を送られるように、これからも努力し続けていく次第です。

これからの目標

今計画していることは

  • 母にオリジナルシャンプーを作る
  • 母親世代が自由に働ける職場を作る
  • 美容師の新たなディプロマをとりに行く
  • barでサックスを吹く(コレマジです笑)

「母にオリジナルシャンプーを作る」

やはり母親世代はエイジング毛に悩んでいる方がほとんどです。その場合に有効なとても良いシャンプーという物も当店で扱っていますが、一から悩みを聞いて少しづつ作り上げて今まで応援してくれた母親にシャンプーを作ってあげたいんですよね。それってすなわち、本当に人の事を想って作ったシャンプーになると思うんです。そのシャンプー事態は母の為に作りはしますが、同じ悩みを抱えた方々にもとても喜んでいただけると思うんですね。だから僕はオリジナルのシャンプーを作ろうと計画しています。

「母親世代が自由に働ける職場を作る」

母親の話ばかりで申し訳ないですが、実は何回も母親の職探しなるものを少しですが一緒にしたことがあります。その時につくづく思ったのが、高齢者の働ける場所はとても限られてしまうという事。どんな仕事も素晴らしい仕事だとは思います、ですが、高齢の方でもやりたい仕事というのはあると思うんです。そして、若者や中高年の方よりも人生経験や身につけた事があったり、高齢者じゃないと出来ない事というのは必ずあると僕は思うんです。活き活きと働くおじいさんおばあさんとか、めっちゃカッコ良くないですか?(笑)それを発揮できる働きたい親世代の方々の職場を必ず作ろうと思っています。

「美容師の新たなディプロマを取りに行く」

個人サロンになると、自分から向上心を持たなければ衰退していくだけ。それだけ美容業界然り、世の中の流行の流れが速いという事。お客様にずっと喜んでいただく為には、お客様の悩みや、なりたい、を叶えられないとダメなんです。そしてそれには技術が必要になります。ここで間違えてはいけないのが、「技術がうまくなればお客様に喜ばれる」じゃなく「お客様に喜んでいただけるように技術を磨く」なんですよね。一番最初に目を向けなければならないのは自分じゃなく、お客様なんですよね。そういう心持ちで新たなディプロマを取りに行く予定です。

「barでサックスを吹く」

あ、すいません……これは完全に趣味です。
テナーサックス、やってます。誰か、下手な僕を仲間に入れてください……(笑)

最後に、途中からコレはなんなんだ?と思うような僕の履歴書でしたが、長々とお読みくださりありがとうございました。当店に通ってくださってる方でも知らない情報が盛りだくさんでしたね(笑)自分の人間性を文章で表すのは難しいですが、ずっとこんな感じですので、のんびり美容室で過ごしたい方はお気軽にお越しくださいね。楽しみにお待ちしております。